広報誌No.198_
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1987 - 1996ような活動をされていましたか。かねてから「何か手に職をつけて自立したい」という思いがありました。当時は男女雇用機会均等法が制定されていたとはいえ、大学を卒業した女性でさえキャリアを築くことがまだ難しかった時代です。日本で浸透していない特殊な技術を海外で身につければ、その分野のエキスパートとして活躍できるのではないか。そう考えて、アルバイトで資金を貯め、イタリアのフィレンツェに渡りました。選んだのはなぜでしょう。芸術の宝庫だからです。女子美にいた頃、美術史の先生の引率でヨーロッパ各地の美術館を訪れましたが、そのときに目にしたフィレンツェの街並みの美しさが忘れら女子美術大学を卒業後、どの学びの地としてフィレンツェをれなかったのです。まるで街全体が美術館で、どこを歩いても美しい建物やモニュメントが目に留まります。芸術分野で技術を磨くならここしかないと感じました。そのフィレンツェで、修復家を目指し始めたと伺いました。はい。最初の2年間はアカデミア美術学院絵画科で洋画を学んでいたのですが、「もっとニッチな領域の職業訓練を受けたい」と思ったことが修復家を志したきっかけです。実際、フィレンツェは修復技術を学ぶのにうってつけの地でした。1966年に発生した大洪水で多くの書籍や芸術作品が甚大な被害を受けた際、各国から修復の専門家たちが集まり、大規模な修復センターが建設され、最先端の修復技術が持ち込まれたのです。ちょうど修復家の養成所であるパラッツォ・スピネッリで生徒を募集しているとの情報を聞きつけ、紙資料修復コースへの入学を決めます。ここではメスの持ち方や本の縫い方といった基本的な技法をひととおり身につけただけでなく、一切の妥協をせずに修復に向き合う専門家たちのプロ意識にも触れました。卒業後は晴れてトスカーナ州公認の修復技術者の資格を取得。イタリア文化庁から文化財保存修復士の認証も受けました。名実ともに、修復家としてのキャリアがスタートすることになります。手に職を持ち、自立した人生を歩みたい08Special Report───パラッツォ・スピネッリの授業での練習作品版画 修復後版画 修復前パラッツォ・スピネッリで先生やクラスメートたちとともに

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