授業風景。展覧会やワークショップの企画立案など、グループワークによる課題制作を多く行なっている Photo: Atsushi Yoshihamaキュレーションcuration。美術館や博物館に所属し研究活動を行なう学芸員(=キュレーター)やそれに相当する役職の人が、個人の視点や社会的な状況を反映させるかたちで、展覧会の企画や展示作家・作品・資料などの選定を行なうこと(派生して、独自の視点で情報を集め、第三者に見せること全般を指す用語としても用いられる)。展示空間や関連イベントの監修、展覧会カタログの編集など、キュレーターが関わる仕事の範囲は近年ますます拡大・多様化している。07Keyword 03んなところで表現に関わっているんですよね。今年の初めにある美術館から依頼されて、小学校から高校、特別支援学校まで、あらゆる年齢や環境の子どもたちに向けたワークショップや授業のプログラムを企画したんですが、そこで感じたのは、「表現したい」っていう気持ちと、表現する権利はみんな平等にあるんだということ。「つくってみたい」とか「見知らぬ誰かにでもいいから、自分を見せたい」と思うというのはすごく不思議な経験で、その始まりを思い出すことから出発して、美術大学に入って表現をしたり、表現に携わったりすることが、自分にとってどういうことなのかを考える。それって実は(現役の)アーティストも同様なんです。アーティストはいろいろな場所でいろいろな作品をつくるんだけれど、「そもそもなぜ自分は表現しようとし始めたのか」というところに常に繰り返し立ち戻っているんですよね。さらに言えば、それを企画する人、それこそCPで学ぶ人にとっても重要なことです。いつでも自分が戻れる場所として、そこを確保しておくって、すごく大事だと思うんです。日沼:自分の感情やきっかけを大事にしなきゃいけないというのは、キュレーションでも本当に同じなんです。方法論よりも、もっと根本的なところ。社会的な出来事や、身近に起きたことに対して抱く違和感や共感があったとして、そのことを体現している表現者に出会ったときに「これだ」と直感して、そこから一緒に何かをつくったり、取り組んでいく。表現者と、そこでどれだけ共感し合えるかなんですよね。潘先生はよく「表現は、自分の居場所をつくることだよね」って言ってますよね。潘:表現って「誰かに見せる」という前提があると思うんですが、それに至るまでのなかで、単に手を動かしたり、自分が何かを想像したり、そういう没頭している時間そのものが自分の居場所でもある。これは私も長年強く思っていることですね。多分、今活動しているアーティストたちだって、最初からすべてをわかって何かをつくれている人ってほぼいないと思うんです。わからなくても何かができる─つまり自分の居場所をつくって、そこで悶々とする時間のなかから出てきたものって、ある種の何かの「始まり」として強く存在している。それこそ、その作品がその場所にやって来るまでのナラティブ(物語)を知るというのは「なぜその人がこれを始めたのか」っていうことにもつながってくるような気がするんですよね。「裏方」ってなんだ 日沼:APにもCPにも、領域名に「プロデュース」って言葉がついているし、ここで受けられる授業のなかにも「プロデュース」とか「マネジメント」という名前の入ったものがいくつかあります。この領域は美大だけど「絵を描いたりものづくりをした経験がない人でも学ぶことができる」として、多様な高校生に対して可能性の間口を広げていますが、それに対して「じゃあ『裏方』の勉強するのね」というように、ひとつの側面だけを見られてしまうことがあります。そのたびに「『裏方』ってそもそもなんだろう?」って考えさせられるんです(笑)。例えばアーティストとマネージャーがいたとして、外に出ていくのはアーティストで、かたやマネージャーの顔が表に出ることはほとんどない。でも、実際はその両方がいないと物事が成立しない。だからやっぱり常に対等な関係性である
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